ひとことで言えば、美しい物語だ。
本屋大賞をとったのもうなずける(2004年)。
1990年の芥川賞受賞以来、1作ごとに確実に、その独自の世界観を築き上げてきた小川洋子。
事故で記憶力を失った老数学者と、彼の世話をすることとなった母子とのふれあいを描いた本書は、そのひとつの到達点ともいえる作品である。
現実との接点があいまいで、幻想的な登場人物を配す作風はそのままであるが、これまで著者の作品に潜んでいた漠然とした恐怖や不安の影は、本書には、いっさい見当たらない。
あるのは、ただまっすぐなまでの、人生に対する悦びである。
家政婦として働く「私」は、ある春の日、年老いた元大学教師の家に派遣される。
彼は優秀な数学者であったが、17年前に交通事故に遭い、それ以来、80分しか記憶を維持することができなくなったという。
数字にしか興味を示さない彼とのコミュニケーションは、困難をきわめるものだった。
しかし「私」の10歳になる息子との出会いをきっかけに、そのぎこちない関係に変化が訪れる。
彼は、息子を笑顔で抱きしめると「ルート」と名づけ、「私」たちもいつしか彼を「博士」と呼ぶようになる。
80分間に限定された記憶、ページのあちこちに織りこまれた数式、そして江夏豊と野球カード。
物語を構成するのは、ともすれば、その奇抜さばかりに目を奪われがちな要素が多い。
しかし、著者の巧みな筆力は、そこから、他者へのいたわりや愛情の尊さ、すばらしさを見事に歌いあげる。
博士とルートが抱き合うラストシーンにあふれるのは、人間の存在そのものにそそがれる、まばゆいばかりの祝福の光だ。(涙が自然にあふれるはず。)
3人のかけがえのない交わりは、一方で、あまりにもはかない。
それだけに、博士の胸で揺れる野球カードのきらめきが、いつまでも、いつまでも心をとらえて離さない
読み終えた時に、ゆっくりと暖かい気持ちになれる。
少し前向きな気持ちで明日からやっていこうと思う、それが小説のもつ絶対の力。
この本にはそれがあふれている。
(数学のもつ美しさもホンノちょっとですが、味わえます。)
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